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『ある日ある時』震災 25
![]() 冬が無いと言ってもいい伊豆半島、房総半島、九州もいいな。 冬だけじゃない夏も涼しいところがいい。 房総にするか。よくよく考えたら、二次避難先から都度都度地元に戻らなくてはならない事があるはずだ。 遠方はまずい。4時間を切る範囲、できれば道中渋滞など無縁な所、そうだ知人にここまで車を持ってきてもらうより、こちらから取りに行くべきだ。知人は大仙市在住、そうだ仕事で数週間滞在したことのある横手にしよう。 |
![]() 秋田をお願いした。すると秋田の連絡先、恐らく県庁の一部門だろう。教えられたところに電話、同じような質問が来た、秋田のどこを希望、横手市をお願いした。 同じく連絡先を教えていただき、即座に電話。まず六家族になる予定であることを話したが、制限は無い、どちらにしても、なんにしても市の窓口まで来ていただければ、すべて用意してあるらしかった。 電話の内容を話し今後の予定を各家族で話し合った結果、最終的には、私たちだけの家族が行くことになった。 |
![]() この頃、すでに長女の持病が悪化、一日の猶予も無かった。 他家族は口を揃えて言った「山間部の廃校じゃないか?」「人里離れた普段使われていない公共施設じゃねぇか?」なんでもいい、バスは動いてるだろう。病院もあるだろう。それだけあれば、どこでもいい。 長女の病の方が心配だった。ここで処方された薬も少なくなってきたし、何より、平穏な環境が必要だった、出来る限りの、あたりまえな日常の環境が必要だった。 |
![]() バス停まで車の手配をしてもらった。 取りあえず、30日は、私だけ一人で行き、詳しい話を聞いてくるのが目的だった。 同じ市内でも、津波の被害が軽微だった地区と、甚大だった地区、全く違った状況だった。 それでも、どちらも非日常には変わりがなかった。 |
![]() 天国と地獄の差があった。 余りの差に、心は沈みがちになってきた。 駅に着いてからは、益々、塞ぎ込んでしまった。 地震など、ごく一部の建物に影響が残ってる風だっけで、まったく、およそ地震など関係ない日常があった。 |
![]() 真剣に現状を説明するにつれ顔からは笑みが消えたが、ようは他人事だったのだ。 県の担当者があれでは、救援物資など届くはずも無かった。 あの直談判が無かったら、津波被害地区でどれだけの餓死者が出ていたのだろう。 不眠不休で患者の治療に当たり、救援をする、1分でも時間が欲しい医師。 彼らが直談判に行かなかったら、高齢者、こども達どれだけ餓死したのだろう。 当時の政権の影響と思っていても、口に出すつもりは無いが、初めから終わりまで、政権も地方行政も救援などに、さほど関心は無かったようだ。 |
![]() それだけが、唯一得られる情報、運行時間など調べようが無かった。 取りあえず、石巻を始発のバスで仙台へ、仙台から横手まで、バスの時間は午後 3 時半頃、時間が余りすぎた。 駅ビルの喫茶店、家電量販店などぶらついて時間を潰したが、今思うと、仙台の人々に、自分の姿はどう映っていたのだろう? コーヒーを運んできてくれた。 「ここは天国ですねぇ・・・津波地区は地獄です・・・」唐突につぶやいてしまった。 「何か、必要なものありますか?少しなら、食料品持って行っていただけますけど・・・」 事情を話し、コーヒーだけ味あわせていただき店を出た。 |
![]() 魚の腐敗臭が出ていたのに気づいたのは後々だった。 津波被害地区では、お出掛け服装の最先端だったのだが、彼ら彼女たちから見ればホームレスそのものだったに違いない。 この頃すでに、男性用の下着を身につけることが出来ていたのが、せめてもの救いだった。 |
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