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13/03/02 (土)

『ある日ある時』震災 24

震災画像93 震災から2週間頃
 知人も、ほぼ毎日、職探し、家探しに出かけるようになり、私の方は徒歩で行動する機会が増えた。

 電波が届く範囲までの行動が思うように出来なくなった。そんな時、ありがたい話が飛び込んで来た。SoftBank が簡易中継局を設置してくれらしかった。

 それだけではない、無料で使用できる携帯電話機も数台地域住民のために設置していってくれた。

 固定電話に電話をする時は、使わせていただいた。

 友人知人で、相手が、SoftBank 利用者とわかっている時は、自分の携帯で掛けることにした。

 とにかく、連絡をしたい時に、すぐ連絡できる携帯電話本来の機能を充分使うことが出来るようになってからの各方面とのコンタクトは飛躍的に増えた。
震災画像94  しかも、利用料金を気にせず連絡を取れるようになった、SoftBank 様々だった。さらに、最初の話では、数日で他の避難所に移動設置するとのことだったが、かなり長い間設置されていた。

 連絡するべき所、情報を得るべき所、思うように出来るようになった。友人知人の瓦礫の片付けも落ち着いてきた。行ける範囲での写真の記録も済んだ。

 こうなってくるとただ待つだけの日々に苦痛を感じるようになってきた。

 さらに、そろそろ耐えがたく限界に近づきつつある事態が進行してきた。内心では、一線を越えてしまうと発狂でもしかねないような危惧に苛まれ始めた。

 身体は、どうにか少量の水で清拭できたが、洗髪は無理だった。其の耐えがたい痒みが限界に近いことを思い知らされた。痒みに絶えかね一線を越えて掻き始めたら最後、頭皮がはがれるまで掻いてしまうような恐怖を感じるようになった。
震災画像95  震災直後、食料調達の時に、巨大な自衛隊の救援基地の前を通過してきた際に、整然と並んでいる隊員用の宿泊テントの一隅に、過去の経験から見覚えのあるテントに目がいった。

 あれは!?そうだ浴場だ!!頭皮に軽い痒みを覚えた時点で、公明党の市議会議員を捕まえて、あの浴場を使わせてくれるよう自衛隊にお願いできないか話をした。

 頼んでから数日が過ぎ、諦めていた時、限界を超え掻き毟れば発狂するのでは無いかと思えるまでになってきた時、歩いて行ける公立学校の避難所空きスペースに『熊ノ湯』がオープンした。北海道の部隊だった。

 後がつかえている素早い利用を余儀なくされたとはいえ、生き返ることが出来た。数日後には、先生のご配慮でバスを貸し切り日帰り温泉なども楽しむことが出来た。

 この頃になると各種燃料の補給も震災前までとは行かないまでも、ほぼ戻りつつあったようだ。『熊ノ湯』も始めは次の避難所に移動するような話だったが、避難所が閉鎖されまで設置されていたようだ。

 以後、割り当てられた入浴可能日が待ち遠しくなった。利用者を誘導してくれるヘルメット被り迷彩服で身を包んだ凛々しい隊員に逢えるのも楽しみになってきた。自分が経験した時代には、異性の隊員など居なかった、いやぁぁぁ、今の自衛隊員はうらやましい!!いや、これは余談でした。
 この頃、仮設住宅の建設が思うように進まない現状が問題視され始めた。

 それにともなって避難所は公共施設が主、それも学校施設が大半だったことから、日に日に、糞尿の処理をはじめ、様々な面で劣悪な環境になることの他、新学期の授業などもあったりで、二次避難所への移動が話題になりはじめた。

 はじめは避難所単位、自治会単位などだったが、個々の世帯を対象にした仮設住宅が出来るまでの二次避難の話も新聞紙上を賑わすようになってきた。

 自治体の誘致の記事も目立つようになってきた。県営、市営住宅を何世帯分確保して用意、生活必需品支給、移動費用30万円支給、返済免除の自治体もあれば、収入を確保できるようになったら返済してねの自治体など。

 また、仮設が出来るまで温泉宿にどうぞなど。そんな時、国交省が打ち出した『第二次避難個別プログラム』募集の記事を目にした。地元自治体の斡旋で、或いは各自治体のお招きを利用するより、何故か安心感があった。(^^ゞ

 仮設が出来るまでの間、気分転換するのもいいかもしれない。さて、九州にするか、東京もいいな、千葉もいいな、思い切って関西などなどもいいかもしれない。物見遊山にでも行ような感覚で悩み始めた。

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