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『ある日ある時』震災 20
![]() 容易く行けない距離にある自家用車を生き返らせる事だけに固守するわけにはいかない。 友人知人、一面識だけだった人、同僚、元同僚、親類あらゆる伝手を頼り、車の入手に奔走の日々が始まった。 走ればいい車、地震前なら10万円を切る相場でも、買い手が付かない展示車が其処彼処の中古販売店に置いてあった。 しかし、大勢が気づき始めたなら、わが家の経済力では、到底、入手不可能な相場になってしまう。少し焦った。ここ二、三週間が勝負だ。 |
![]() しかし、電話するだけでも一苦労だ、まず、圏内まで行くには、最低限自転車が必要だ。 電話が通じて事情を説明、車の手配をお願いするも、その場で返事を貰えない場合は、 後日、自転車を再度手配し圏内まで移動しての確認になる。 |
![]() まず、食糧の確保、停電その他の理由で、近辺に営業してる店を探すのは難事で、数キロから数十キロ先まで移動して確保しなければならないのが現状のようだったし、 ガソリンを手に入れるのに数時間費やすため、一台は完全に物資調達用と言うことで譲って貰うわけにはいかなかった。 |
![]() 市内どころか市外の業者ですら、電気のない状態で車検などで引き受ける業者などいなかった。 いたずらに時間だけが過ぎていく。 ある日、津波被害のない市外の中古店でいつ入るかも知れない車を待って行列ができはじめている事を知り、もはや県外に頼るしかないことを思い知らされた。 すぐさま秋田の知人に、数年ぶりに電話、車の手配を快く引き受けてくれた。 |
![]() ブースターケーブルで挑戦、繋いだ車が軽トラでバッテリーも弱っている状態が一目でわかったが、試してみた。 セルが回りエンジンが始動しそうで始動しない。 やはりバッテリーの容量のようだ。 数日後、完全充電したバッテリーを持って行ったときには、遅かった。 |
![]() キーは差し込めたが錆び付いたのか回すことはできなかった。 車にはそれほど詳しくない。ここでようやく諦めがついた。 まずは車の確保が最大一、余事は二の次の日々の中で、各所で道路の瓦礫撤去が進み、様々な人、様々な方面から行き来出来るようになり、情報がもたらされるようになってきたし、地方紙の配達も始まった。 電気も復旧した、ただでさえ他の避難所を知る人達からは「ここは天国!?こんな避難所ない!!」の評判が空調設備の暖房を利用できるようになり、パラダイスの様相を呈し始めた。 |
![]() 移動手段がある人達は、仕事に、家の片づけに、出かけるようになり、昼、避難所にいる人達は限られるようになってきた。 車手配のめども付きやることがない日々、仕方なしに、歩いて行ける友人宅の後かたづけの手伝いをするのが日課のようなになった日々に、顔見知りが自転車を持って避難してきた。 ちょっぴり行動範囲が広がり、はじめて行ける場所も増えてきた。 皆、落ち着きを取り戻し、余裕が出始めたように見える。 そろそろ記録を残して置くための写真撮影を始めても、咎められる雰囲気は減ってきたように思えた。 しかし、まだまだ、手当たり次第に撮れるという雰囲気ではなかった。 |
※ 支援物資は、自宅生活者のためにも、様々な場所で、様々な団体が支援を開始した。 一度自宅に運んで、二度、三度、次の支援場所を聞きつけ並ぶ。 落ち着いたらスーパーでも始めるのかと思えるほどため込んでる一族も居たらしい。 多かれ少なかれ、余り余るほどの支援物資を自宅生活者は溜め込んでいた。 我が家は戻れる状態ではなかった。 戻る気も無かった。 家にあって使える物、家の二階に残っていた日用品をすべて会館に運んだ。 灯油、ティシュペーパー、トイレットペーパーなど、すべて運んで事務所に置いた。 「うちらが使うティッシュは?」 「エッ!?(‥;)無いの!?」 またまた、口を聞いて貰えない日々が始まった。(;_;) |
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