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11/05/11 (水)

『ある日ある時』震災 12

震災画像29  今となっては、記憶にないのだが、無理に思い出してみると、津波が来る前、いや思い出せない。普段あるはずもないパン類が何故か二階にあった。

 冷蔵庫!?もしかしてドアが開いていなければ密閉度があるはず?屋外まで流された冷蔵庫、ドアは開いてなかった!!

 ヘドロなど入らないよう慎重に開けて見た。無事だ!!今思えば、肉、魚、どうにかして調理できたような気もするのだが、電気、ガス、水道が止まっていたことで、生ものは諦めた。冷凍食品、パック加工された食品だけ取り出した。

 地震後、時間を置かず停電したが、当日夕方から雪など降り出し、気温が低かったこともあって、冷凍庫は殆ど解凍されていなかった。

 もともと家の中にあった物、引き波の力が強かったにせよ屋外までは流されないはずなのに、最後の最後まで屋内に留まる抵抗を見せたのかも知れないが、残念負けたとでも言いたげに、玄関先に出ていた。
震災画像30  パソコン類も同じように外には出ていたが、流されていなかったのは、電源コード、LAN ケーブル、アースなどそれらが命綱の役割を果たした為かもしてない。

 食べるだけ食べて、腹ごしらえを終えた。

 さて長期戦どころの惨状ではない。昨日から聞き続けているラジオからの情報が正確なら、当分、復旧、復興などありえない。
震災画像31  避難先は会館しかない。しかし、一瞬躊躇した、もしかしたら指定避難場所ではないかも知れない、とするならば支援物資など来ないかも知れない。もしそうなら、それはそれでいい、それなら自分で調達すればいいこと。調達できなくて餓死する羽目になっても、会館しかない。

 しかし、会館まで距離がある移動手段は足しかない。覚悟を決めて歩き出した。会館方向に進みにつれ、益々、地獄絵、破壊、壊滅、最早どんな形容詞も形容不可能な惨状の世界だった。

 形容しがたい惨状の中、人々は歩いていた。誰も彼もヘドロで汚れていた。誰もかも、着の身着のままだった。かろうじて手に出来た僅かばかりの生活雑貨、衣服、食料、水など、ある者は自転車にくくりつけ、ある者は背中にしょって、ある者は車輪の着いたキャリーにくくりつけて、行く当てがあるのかないのか、地獄の中を歩いていた。
震災画像32  赤ちゃんをおんぶして、幼子の手を引き歩いている若き母親もいた。

 数人連んで意気揚々歩いている若者もいた。もうすぐ春、おしゃれして外出する時期でもあるはずなのに、上下チグハグな服装などまだおしゃれな方で、左右まったく違う履き物を履いて歩く乙女もいた。

 当日は、意気軒昂そうに歩く乙女を見て頼もしい限りだったが、今こうして書いている時分は、どうしても涙が溢れてきてしまう。いったい、こんな惨事、何故起きたんだ!?何故、今なんだそんな思いが日増しに強くなってくる

 不思議なことに、皆、実に爽快な顔をしていた?重く沈んだ顔、打ち拉がれた顔、苦悶の顔などなかった。
 それらの表情を浮かべることが出来る程度の事態ではなかったし、状況でなかった事が、皆を爽快な顔にしているようだった。こてんぱんに、ケチョンケチョンに打ちのめされ、打ちのめした相手が相手だと、反って、実に爽快な顔になるのかも知れなかった。
震災画像33  実際、第1波の勢いが衰えた頃には、余りのことに笑うしか無かった。

 まだ山の北側斜面に、解けずに残っている雪があたが、日差しがあり、少し暖かだったのはありがたかった。昨夜の雪模様の天気が嘘だったように晴れ渡った。

 いつもの風景と違うのは地上だけではなかった。

 上空には早朝から、さまざまなヘリコプターが飛行していた。

 初めは単なる偵察なのかと思っていたが、どうも、そうではない飛行に見えた。

 普段、眼にすることが少ない大型ヘリの飛行は、単なる偵察飛行でないことをいやでも教えてくれていた。目的地に向けて最短飛行、時間との戦いをしてるような飛行にただ事ではない緊迫感さえ読み取れた。

 後日知り得たことだが、これまで見てきた惨状、これから見る惨状など決して惨状の範疇に入らない事を知った。
震災画像34  12日以降、悪天候で飛行出来ない日以外、夜明けから夜遅くまで、飛行の音を聞かない日はなかった。前方から,後方から、左から、右から、上空、中空、低空、ひっきりなしに爆音を轟かせ飛行していた。

 地上から眺めていると、ニアミスどころの話ではなかった。本気で衝突を心配した。いったい何が起きてるのだろう?見た目で身近なところでしか判断できない現状、余りの頻度に、何の目的で飛行してるのか訝しさも覚えた。

 しかし、『賢明に救助してくれている』その爆音に安心感、元気づけられたのは、言うまでもない。

 あれ?P2 対潜哨戒機?米軍の偵察機では?そんな飛行体もあった。なんだろう?今は、何のための飛行だったのか理解したが、当時は、単なる物見遊山飛行?程度しか理解できなかった。
 ※ 福島原発事故、当時、すでに広範囲に放射性物質飛散、広範囲で放射線被曝が進行してるなど思いも寄らなかった。

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