『ある日ある時』震災 02
2011.03.11 14:46
商店街、割れたウインドーガラス、落ちた看板、多かれ少なかれ、どの店にも被害が及んでいた。あまりの揺れに、店主、店員、買物客など、大勢が怯えきった表情をして外に飛び出していた。中には泣き出している女性の姿もあった。腰が抜けたのか歩道にへたり込んでる人もいた。従業員どうし、お互いしがみついて震えてる人もいた。
『何やってる!怖がってる場合じゃない!高台に逃げろ!』拡声器装置などあろうはずもないタクシーどうしようもなかった。防災無線とけたたましい半鐘に誰かが我に返り避難してくれることを祈った。駅から湊、渡波方面に398号線を10分ほどの距離、走ってきたが、どの家からも、どの商店からも、どの会社からも人々が飛び出していた。茫然自失していた。怯えきっていた。
私にしては、迅速行動だった故か、動いてる車、人は、まだ少なく家の近くまではスムースだったが、さすがに家近辺では、地震発生直後からけたたましいサイレンとともに、絶叫に近い声で、大津波警報を連呼をはじめて、避難を促し続けていた為か、茫然自失してる人はいないようで、皆、緊張しきって避難を始めていた。近くの水産会社団地で働く従業員なのだろう。白衣の作業着、着の身着のままで避難する人達、日頃、水産加工品、市場にあがった鮮魚を運搬する大型トラックなどで溢れ渋滞を起こしてていた。
歩道という歩道は、避難する人たちで、ごった返していた。誰もが、緊張の面持ち、恐怖の面持ちだった。
それらを、どうにか、かいくぐり、すり抜け家に辿り着いた。
後で知ったことだが、すべての企業で避難指示を出したわけでは無いようで、利益第一、お金第一にとりつかれた経営者、職場の責任者も居たようで、その下で働いていた人たちは、すべて流され犠牲になったようだ。
※ 先人の教訓『津波はてんでんこ』(津波からは、他人の指示ではなく、自分の判断で自分の命を守る。家族が一緒になるのを待ったりしない。余力があるなら、例え、他人でも助けながら一緒に逃げる。)注意報はいいとして、警報が出たなら、即、海岸線、河川から出来るだけ離れる出来るだけ高台に避難する。