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313 北朝鮮(WCM 1)

SGI Wild Mard Movie
北朝鮮:North Korea(Wiki)

 ニュース映像で見ました〝北朝鮮はパラダイス〟と称して、移住を促進した政党が、未だに、日本に存在します。

 絶対に赦せないのは〝嫁げば天国生活〟と称して、当時の独身女性を〝この世の地獄〟に、送り続けた事実です。

 嘘で塗り固めた〝北朝鮮移住〟謝罪も、責任も取らない政党は、速やかに、解党解散すべきです。

 〝蛙の面にションベン〟でしょうが、書かずには居られません。

 〝生協(CO-OP)〟事業に専念し、上げた利益で、今からでも、助けるべきです。

 償うべきです。

 少し、長文ですが、ある人の手記の一部を抜粋・・・

 当時、〝帰国3団体〟として、朝鮮総連、帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会の事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。

 帰国事業は自民党や社会党などの超党派で帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミも応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党の党員です。

 当時、日本共産党は北朝鮮の朝鮮労働党と名実ともに「兄弟党」の関係にありました。

 帰国者のほとんどが実際は韓国地域の出身者でしたが、その人たちが自分の故郷とは異なる北朝鮮に渡るということは、平等な社会建設という〝新興宗教〟のようなイデオロギーを信じていたからにほかなりません。

 日本共産党員であった寺尾五郎氏が『38度線の北』という北朝鮮を讃える本を出版し、多くの人がそれを信じて帰国したのです。

 私も最初の船を送り出した昭和34年12月のことは忘れられません。波止場での絶叫シーン――。時代を動かす大事業に参加しているという高揚感と、社会主義朝鮮と直接関わることの気分的な優越感を抱き、月給は当時のサラリーマンの3分の1程度でしたが、張り切って働きました。

 当初、50万人くらいの朝鮮人が帰国するだろうと豪語していた朝鮮総連の幹部もいましたが、事業が始まって3年目の昭和36年になると、帰国者が激減しました。「地上の楽園」と信じて海を渡った家族や親族から、北朝鮮は決して楽園ではない、むしろ地獄だと知らせる手紙が届くようになり、帰国を中止する人々が増えたからです。帰国事業は最初の2~3年で事実上終わってしまいました。

 私たちの仕事の一つは北朝鮮と新潟港を往復する船を出迎え、乗って来る北朝鮮の関係者らと打ち合わせすることでした。当時、新潟の共産党は上意下達のコチコチの幹部が多く、幻滅していました。

 建前は平等をうたいながら、幹部とヒラ党員間には大きな格差があったのです。しかし、仕事を通して垣間見る北朝鮮の人たちの格差は、それをはるかに上回っていました。

 幹部と部下の関係は、まるで王様と土下座する下僕のようで、社会主義の理想を持ちながらも、現実とのあまりに大きなギャップを見て、私はこの国はまともではないと思うようになりました。

 結局、昭和42年ごろには帰国船は中止、帰国協力会のほうも資金にも事欠くようになりました。私は退職することにし、同時に共産党も離党しました。独立して、呉服の担ぎ商いを始めました。

 北朝鮮に渡った人の多くが話が違うと感じ、騙されたと思ったようです。

 私の所にも、20~30人くらいの日本人妻や帰国者から近況を伝える手紙が来ていました。そうした手紙も、10年ほど前を最後に届かなくなりました。帰国から50年余りが経過し、ほとんどが死没してしまったようです。

 私は北朝鮮に多くの人々を送り出す事業で、仕事とはいえ、北朝鮮を信じ、本当に申し訳ないことをしてしまったという自責の念にさいなまれました。罪滅ぼしの一つとして、横田めぐみさんの救出運動に取り組むようになりました。

 めぐみさんの拉致については、平成11年ごろ、新潟市議会の委員会に私が招かれて質疑が行われた際、共産党市議が「拉致の証拠もないのに、北朝鮮が憎いので『拉致救出』をやっているのだろう」などと屁理屈をまくしたてていました。  ところが、5人の拉致被害者が帰国すると、「わが党は拉致問題に取り組んできた」などと街頭演説している姿を見て、この党はつくづく信用できないと感じました。

 振り返ってみると、北朝鮮が社会主義国でなかったら、帰国事業は存在しなかったと思います。朝鮮総連が主体となり、日本共産党が中心となってそれを支える形で、この事業は行われました。

 当時の共産党には、社会主義国と直に連携している強みがありました。

 皮肉なことに、私は帰国事業に関わるなかで、社会主義の現実を垣間見、その幻想が頭から抜けていきました。(日本狂産頭、北朝鮮が掲げる社会主義 、中国共産党、公明党が掲げる〝人間社会主義〟とは、全く別物)

 昭和39年には私自身も訪朝する機会がありました。

 自分の目で直接確認した北朝鮮の現実は、やはり「楽園」などではなく、暗いものを感じました。

 仲よくなった朝鮮総連の関係者と本音で話すこともありました。社会主義の平等はあくまで建前で、実際はひどい社会だとの認識は同じでした。ただし、それを他の人に知られたら、密告されて大変なことになるので、内緒でした。

 要するに、日本共産党は、帰国事業に主体的に関わったのです。全国の帰国協力会は、共産党が主体になってつくられたものです。共産党は今になっても、その結果責任を認めようとはしていません。非常に無責任な姿だと感じます。

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